古代ローマにおいては、家庭内労働は「奴隷」の仕事であった。中世においては、「使用人」である。
近代以降、主な雇用者である中産階級の成長とともに増加し、19世紀後半から20世紀初頭に全盛期を迎える。しかし、第一次世界大戦を契機として「女性労働力の再評価」が始まると、女性の社会進出とともに急激に減少した。イギリスおよびアメリカなどで多かったが、日本でも高度経済成長期までは奉公の一環として使用人が用いられていた。
現在の先進国では、住み込み・フルタイム労働のメイドは、ごく一部でしか見られなくなっている。
日本では昔から庶民層の娘が富裕層や武家階級に雇われる、いわゆる奉公の習慣があった。近代に入っても、農村出身の少女を商家や都市部の富裕な家が住み込みで雇うことが、高度成長期までは見られた。1953年(昭和28年)1月16日金曜日から、朝日新聞に、6人家族の家庭に働く17歳の女中が主人公である『トンちゃん』(矢崎武子)が連載されたことからもわかるように、当時は未成年者の奉公人を雇う家庭は決して珍しくなかった。当時は一般的に女中・お手伝いさん・家政婦という言葉の方が圧倒的に多用され、メイドの呼称が使われたのはせいぜい外国人家庭か西洋かぶれの日本人家庭ぐらいだった。敬称をつけ「お手伝いさん」と呼称するのが一般的であった。
第二次世界大戦後、高度成長期以前では義務教育を終了すると女中奉公に出されることは珍いことではなく、女性の就職先としてありふれた存在であった。女工などの工場労働に比べ、身元のしっかりした家庭に奉公に上がることは女性の両親としても安心出来る就職先であった。また単に賃労働としての性格と同時に、地方の良家の子女が、行儀見習い、花嫁修業、見聞を広める手段として都会の文化的な家庭に奉公する例もみられた。この場合支払われる賃金は寡少で、嫁入りの際に嫁入り道具や祝儀で代償されることが一般的であった。紹介者を必要とし、身元のしっかりした娘であることが求められた。この場合、嫁入りと同時に雇用関係が解消されるのが一般的であった。
昭和25年ごろまでは日本にも使用人税があり家事使用人の雇用者には税金を支払う義務があった。狭義の「メイド」の消滅に伴い、「メイド」という言葉は、実際の職業に対する呼称としてはあまり使われなくなった。
フルタイムではない、家政婦やハウスキーパー等の雇用に際しては、派遣業者と契約を結ぶ例が一般的である。