• 188
  • 1
コメント

【生放送】森脇透青×青山俊之×國安孝具×栁田詩織「『意味の時代』に批評はなにができるか── 『訂正可能性の哲学』と哲学・批評のミライ」【#学問のミライ #5 特別編】 #ゲンロン231103

CH一部無料
(4時間30分)

ゲンロン完全中継チャンネル提供:合同会社ゲンロンカフェ

この番組を最後まで視聴するために

※ 本イベントは、シラス「ゲンロン完全中継チャンネル」からも配信いたします。放送開始から4時間30分を超えてイベントが続いた場合、ニコ生では配信を終了しますが、シラスでは有料で延長配信をおこないます。
※ シラスのシステム上、延長部分のみの購入はできません。延長部分のご視聴をされたい方は、あらかじめシラスで番組本編をご購入ください。

☆ 番組チケット(1000円)のご購入はこちら!
https://ch.nicovideo.jp/genron-cafe/live/lv342970149
☆ 登壇者への質問を募集中!
https://forms.gle/JWHfsufZmJBkijqD8


【イベント概要】
若手研究者を応援するシリーズ「学問のミライ」、通常は配信のみの企画ですが、第5回目は特別編として会場参加ありで開催します!

ゲストは哲学研究者・批評家の森脇透青さんです。森脇さんはジャック・デリダを専門とし、『ジャック・デリダ「差延」を読む』(共著、読書人)を上梓されています。また哲学研究にとどまらず、批評のための運動体「近代体操」の立ち上げや『週刊読書人』での論壇時評の連載など、批評家としても注目を集めています。本年9月初旬に行われた、脱構築研究会主催・東浩紀を交えてのシンポジウム「25年後の『存在論的、郵便的』から『訂正可能性の哲学』へ」でもご活躍されました。

今回のイベントではまず森脇さんとともに、9月に発売された『訂正可能性の哲学』を読み解きます。東の批評活動を「既存の制度空間を批判しつつその外に自分の領域を作り、それを広げていくという活動家の実践」と評した森脇さんは、『訂正可能性の哲学』をどう読んだのでしょうか。ゲンロンの院生スタッフから青山・國安・栁田の三人も加わり、若手から見た『訂正可能性の哲学』を議論します。

イベント後半では、森脇さんの研究や批評活動をご紹介いただくとともに、哲学研究・批評の未来について考えます。森脇さんは、現代はあらゆる人が作品に「意味」を読み取り考察する「意味の時代」であると考えられている一方で、批評という営み自体に不可解さや困難さがあると感じられているようです(それを表すかのように、堀之内出版noteでの新連載はまさに「いま、何も言わずにおくために」と題されています)。しかし森脇さんを筆頭に、若手による批評活動はいまあらたに盛り上がりつつあるようにも見えます。
『批評空間』1999年の共同討議「いま批評の場所はどこにあるのか」から24年。いまの批評・思想シーンを、新しい世代はどのように考え、何を引き継ごうとしているのか?

今回は「学問のミライ」初の現地観覧での開催。当日は森脇さんにたっぷりお話を聞くとともに、若手同士の交流の場になることも期待しています。もちろんそれ以外のどんな方でも、ぜひご参集ください!

【登壇者の森脇透青さんより】
私の関心は、ひとが何かを語ること、何かを書くこと、ある主体が「意味」を伝達したり作り出したりするプロセスにあります。現代は、かけがえのない「私」を語ることに強い意義が見出されている時代です。だからこそ私は、その「語り」のプロセスそのものを——そしてその「私」の発生と構造そのものを——もう一度哲学的に考えなおさなければならないと思っています(それは「私」を否定することではありません)。私とは何か(誰か)。哲学史のメインテーマとも言えるこの問いは、現代でも現象学、解釈学、文芸批評、あるいは精神分析といった営為を通じて彫琢されてきました。

私はジャック・デリダというフランスの思想家を中心として、哲学を研究してきました。現在はデリダにおける「秘密」という概念に着目して博士論文を準備しており、それも大雑把に言えばこうした関心から出発しています。しかし、私はそうした主題を「研究」の範疇でのみ考えることに、一種の息苦しさというか不義理のようなものを感じてきました。それは研究がつらいということではありません。私は研究の場所に恵まれており、研究制度にも順応できるほうだと思います。けれどもそこに安住することに、私は何か責任を果たせていないような、何かが欠落しているような、途方もない不安を感じもするのです。その懸念を私は忘れることができませんでした。今年上梓した共著『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人)の私の文体には、その迷いや戸惑いが現れているかもしれません。

そのような不安の一つの理由は、私が東浩紀さんの著作から批評に触れ、また『存在論的、郵便的』からデリダを読みはじめたことにあるでしょう。東は(そしてそもそもデリダも)、既存の制度のあいだを動き回って撹乱してきた実践者だった。私が影響を受けてきた哲学者や批評家や活動家には、何かそういうパワーがある。それに応答しなければならないのではないか。そこで私はとにかく、自分の力で批評活動をはじめなければいけないという切迫に駆られたのです。批評とは、私にとって現代に対するより直接的で批判的な考察が可能になる場です。私が主宰する『近代体操』という同人誌はそのひとつの実践だと考えています。

したがって私は研究者としては一種の「不良」であるかもしれず、「学問のミライ」というタイトルにはいささか気後れを感じています。学問とは何だろうか……。それに私はイベントを企画する側はこなしてきましたが、ゲストには慣れていません。けれども、こうした私の二重化した書き方=生き方が(かつて柄谷行人は「書くことは生きること」だ、と言いました)、「学問のミライ」になにかしら寄与できればと思い、恥ずかしながら登壇させていただくことにしました。当日を楽しみにしています。


「意味の時代」に批評はなにができるか – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20231103/
親作品・子作品を見る