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    【ニコ生ゲームにおける今永軍団とは・・・】団長の今永昇太を筆頭に、今永昇大、今氷昇太、今泳昇太、今永降太、今永昇丈、今永昇犬、今永星太、みかん氷昇太、今永暑太、ラ永昇太、含永昇太、今永昇天、今永昇格、今永昇給、今永昇進、吟永昇太、今永升太、今永昇降機、今永昇降口、今永ShowTime、太昇永今、今永昇龍拳、過去永昇太、昔永昇太、未来永昇太、今永のズボン、今永のパンツ、今永がズボン、今永のNINTENDO64、琴泉昇太、池永昇大、令永昇太、新古今永昇太、暇永昇太、今永雄洋、今茶谷昇太、今茶谷ヒカプー、今永幸太、日本車のような今永、今永少佐、いまにゃにゃ、いまながすくじら、昔瞬降細(むかしまばたき・こうさい)、今永笑点、今なカーショウ太、春風亭昇太、今永亭昇太、辺井志賀子、SHOTA!ボーイズら、世に蔓延る今永昇太のような何らかの輩どもから成る謎の結社。人呼んで今永軍団。~僕の勝ちというか、僕の役割はいい投球でなく、何があってもチームを勝たせる。それはチームからそこは託されている。そこを意気に感じて、どんな形でも絶対に勝つというのをやれているのがいいかなと思います。〔2022年8月16日、巨人14回戦(横浜)で8安打を喫しつつも要所で粘りを発揮して7回を1失点にまとめ、シーズン7勝目をマーク。球団新記録の本拠地12連勝を飾り、自身も3週連続で相手球団のエース級に投げ勝った試合後の報道陣向けインタビューで、自身の3連勝について問われ・・・〕僕自身、非常に他者の目を気にしてしまったりとか、いろんな人の評価を気にしてしまう性格で、自分を取り繕って話してしまったり、過ごしてしまったりする性格。自分の生き方を変えるのは今しかないというのが一番の理由でもあるので、それがこの30歳のタイミングになりました。〔2023年11月13日、ポスティングシステムによるMLB移籍を表明した記者会見で、メジャー挑戦を決断した理由について問われ・・・〕Hey Chicago what do you say?The Cubs are gonna win today〔2024年1月12日(現地時間、日本13日)、シカゴ・カブスの入団会見での第一声。球団の応援歌「Go Cubs Go」の一節を引用してツカミをキメる〕~【名誉団長・今永昇太とは・・・】「終身名誉団長」「永遠寮長」「大先生」「何者でもない一投手」こと本物の今永昇太は言わずと知れた、横浜DeNAベイスターズでエースサウスポーと謳われた男。2024年からは遂にMLBへ活躍の舞台を移し、シカゴ・カブス(CHC)に在籍している。野球日本代表「侍ジャパン」のメンバーには、プロ2年目を皮切りに国際試合・強化試合を合わせて5度選出。2019年のプレミア12では第一先発陣の一角として世界一に貢献。2023年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではいわゆるピギーバック(第二先発)を中心に中継ぎとして貢献。決勝の対アメリカ戦ではショートスターターとして先発で2回を投げ、ソロ本塁打で1点先制を許すも、走者を置いてからは持ち味を出して粘り切り、14年ぶりの王座奪還に貢献した。福岡県北九州市八幡西区出身で、同市のスポーツ大使も務めている(2018年2月14日発表、同月19日委嘱式。プロ野球関係では歴代3人目だが過去2人はいずれも引退後で、現役選手としては初の就任)。【NPB通算成績】※2023年公式戦終了時点出場:165試合投手:64勝50敗4H(5HP)0S、1002 2/3投球回、13完投 7完封、防御率3.18、1021奪三振打撃:.185(325打席/276打数51安打)、0本塁打、13打点個人タイトル:最多三振奪取投手賞(2023・174奪三振)月間MVP:2度(投手部門・2019年5月、2022年8月)その他個人記録:無安打無得点試合達成〔2022年6月7日、対北海道日本ハム1回戦(札幌ドーム)〕【名誉団長の人となりとは・・・】「投げる哲学者」とも揶揄され、「皆さん知っての通り、僕って変な性格しているじゃないですか」と自虐するほど生真面目で、実直で、謙虚で、細やかな気遣いができる心優しい男・・・というイメージが先行しがちだが、そんな貴殿は本当の今永昇太を知らない。いや、知らな過ぎる。というか場合によってはむしろ、知らない方が幸福かもしれない。やんちゃないたずらっ子だった名誉団長の少年時代を知る地元・八幡の幼馴染たちは、ルーキーイヤーの開幕1か月間、プロ初勝利を逃すたびに次々と刻まれる「今永語録」や、その言葉の端々から与えられた「哲学者」という称号に当惑しまくったんだとか。真面目キャラに関しては名誉団長本人も「イメージが独り歩きしている感じで、僕の本意ではない」と吐露している。普段の素顔は超天然で、とことんイジられまくるムードメーカーである。練習中、筒香嘉智からズボンを必要以上にあげられたり、ヒーローインタビューで「優勝するのは?」と問われ「ベイスターズ・・・・・だよ~」と軽めに甘噛みしてしまい筒香に頭をポコンとひっぱたかれたり、上茶谷大河にはしなりを利かせた独特の投球フォームをデフォルメしたものまねネタ「誇張し過ぎた今永昇太」を披露されたり、後輩ほぼほぼ全員に「昇太」と呼び捨てされたり、買い物を済ませて帰宅した後は買った物のパッケージをすぐに開封し、使う時のことを考えてきちっと並べておかないと気が済まなかったり、謎めいたグループLINEをいくつか持っており、中でも自身がリーダーを務めるチームメイトなど5名ほどから成るグループ『ヴォル会』では日本語として成立しているか疑わしいレベルのシュールな会話が繰り広げられたり、同じく自身がリーダーで、オリックス・山本由伸(2024年、LADへ移籍)、宮城大弥の3人から成るグループでは、宮城がリアルの「今永軍団」の自主トレに参加したい意向を示したとの記事が報じられたのを受け、『こういう変なジョークを言うものではない』『君は勘違いしているよ』『自主トレをお願いするのは僕の方だよ。僕が頭を下げます』と、何故か平身低頭な姿勢を取りつつ釘を刺したり・・・といった小ネタ的なエピソードには枚挙に暇なし。上茶谷はルーキー時から関西人特有の笑いのセンスを存分に発揮し、宴会部長やスピーチライターとして名を馳せる根っからのバラエティ要員だが、そんな彼をしても「一番先頭に立ってちょけてました。もう日常がずっと面白い。『この人、何なんやろ』と思ってました」と呆れ半分に言わしめる程のチョケっぷりである。2017年の日本シリーズで3連敗して迎えた第4戦、試合前の声出しで「俺らがいるのは崖っぷちだけど崖っぷちじゃないんだ!鳥になれば飛べる。今日は鳥になるぞ!!」とチームを鼓舞する熱い一面もあるかと思えば、2021年6月にトミー・ジョン手術を受けた平良拳太郎には、術後1年間のモチベーションを保ってもらおうと、ユーモアと叱咤激励を交えた手製の直筆日めくりカレンダーを贈るという面倒見の良い一面もあったり、後述のノーヒッター達成からほどなくして父親を亡くし、心身ともに安定できない中で2週続けて試合を作れず連敗を喫すと、ついつい自虐を交えて愚痴をこぼし、同級生の桑原将志に「自分で自分の事だけはバカにすんなよ」と叱責されてしまうナイーブな一面もあったり、2022年秋の侍ジャパンの強化試合では後輩・牧秀悟とともに宿舎で若手7人ほどを集めて「人狼ゲーム」に興じながら親睦を深めて結束を図ったり・・・などなど、人間味が溢れ返りまくっている男である。【故障に泣かされつつも・・・】駒大の2年春季からは毎週リーグ戦の第1戦を任されるなど頭角を現し、3年時はエースとして君臨、プロ各球団からも高評価を得ていた。だがドラフトを控えて4年生として迎えた2015年初めに左肩痛を発症し、春季は登板がなく、「侍ジャパン」の大学日本代表としてユニバーシアード光州大会のメンバーに選出されたものの辞退を余儀なくされた。さらには秋季も未勝利でチームも一部6位に沈み、入れ替え戦で完封勝利を挙げたのが年間唯一の白星に。「元々ルーズショルダー気味」というこの左肩の故障が元で、同年秋の1位指名を検討していた多くの球団が指名回避や下位指名に切り替える中で、ベイスターズが単独1位指名、いわゆる「一本釣り」に成功する。ルーキーイヤーから好成績を挙げ続けて迎えたプロ3年目の2018年のオープン戦期間、3月10日のイースタン教育リーグ・対ヤクルト戦(横須賀)に調整で先発し4回無失点に抑えたものの、程なくして古傷の左肩の違和感を訴えて1か月間戦線を離脱。痛みは和らいだものの肩を気にする余りに投球フォームのバランスが崩壊し、不安定な投球内容が続いて一軍昇格と抹消を繰り返し、ローテーションに復帰できず中継ぎも経験。4勝11敗4H、防御率6.80と伸び悩み、オフには故障で崩れたフォームの修正に取り組み、さらに球団が業務提携しているオーストラリア・ABLのキャンベラ・キャバルリーの一員として武者修行を敢行。6試合に先発し4勝0敗、35回を投げ57奪三振、防御率0.51と好成績を挙げ、復活への布石を築いた。2019年には初の開幕投手を任されて白星を挙げ、開幕1か月間は防御率1点以下をキープ。シーズン合計で3完封を記録するなど自身2度目の2桁勝利を挙げ、13勝7敗、防御率2.91、ルーキーイヤーのチームメイトだった山口俊(巨人、2023年春引退)に僅か2個差となるリーグ2位の186奪三振をマークし、復肩を大いにアピールした。・3・~♪だがコロナ禍で開幕延期となった2020年、8月15日の対ヤクルト戦(横浜)で立ち上がりから制球を乱して4回途中6失点と苦しみKOされると、打線も相手投手・小川泰弘にノーヒットノーランを喫して試合は大敗。後日、古傷の左肩の違和感を訴えて戦線離脱を余儀なくされ、悩んだ末に内視鏡を入れることを決意し、10月5日にクリーニング手術を受けた。幸い腱板や関節唇など、関節周りの骨や筋肉には大きな異常は見られず、関節の外側にできた骨棘を除去する施術などが行われた。「(故障時でも球速)148kmくらいは投げられる状態だったが、保存療法を選択して、焦って調整して何かあったら、選手生命を脅かすような部位を傷つけていたかもしれない」「僕の性格上、肩を気にし過ぎた結果、肘や足首など別の箇所の故障につながる可能性もある。オペをすることで身体がすっきりし、心も整理できる」と決断を振り返っている。そしてリハビリを経て2021年5月23日のヤクルト戦(神宮)で遂に一軍復帰。4回1/3を6失点で敗戦投手と復帰は飾れなかったものの、6月13日の日本ハム戦(札幌ド)でシーズン初勝利をマークして復活の狼煙を上げた。かねて熱望していた東京五輪の侍ジャパンのメンバー入りは、最終候補に残りながらもコンディション考慮で落選。それでも「絶対的な力を持っている選手は必ず選ばれる。より一層努力しなければ置いていかれる」と更なる奮起を期し、シーズンでは9月19日の中日戦(横浜)で待望の2年ぶりの完投勝利を挙げるなど、完全復活への道を順調に歩み続けた。イニング毎に空を指差すルーティンは、図らずも天に召された盟友へのさりげないメッセージなのか、それとも・・・。他方、名誉団長がクリーニング手術に早期に踏み切ったことが奏功し、離脱前と変わらぬパフォーマンスを維持できたことがきっかけとなったのか、チームメイトや他球団の選手の間でも肩・肘のクリーニングがちょっとしたブームに。これで重症化や長期離脱が、球界全体を通じて少しでも減ってくれればいいのだが・・・しかし2022年、試練がまたも名誉団長を襲う。春季キャンプ中の2月17日、左前腕部の炎症を発症してリハビリ入り。当初は軽症と思われたが、のちに肉離れと判明。一軍初登板は5月6日の広島戦(マツダ)にずれ込んだ。立ち上がりでバタついたものの、中盤に持ち味を取り戻して粘投、6回3失点と試合を作って延長戦勝利に繋げた。そして5月17日の中日戦(バンテリンドーム)で自身6度目、3年ぶりの完封でシーズン初白星。13奪三振の快投で投壊に喘ぐチームを救った。大学時代から浮き沈みが激しく、故障にも悩まされ、思慮深くなりがちなキャリアを送っているが、それもまた「投げる哲学者」と呼ばれてしまう所以か。因みに、プロ入り後も主にバッテリーを組み続けた戸柱恭孝は、駒大1年時の4年生。下級生特有の日々の練習と雑用とでハードワークが続いて体重を落としてしまった時、「痩せてるんだから好きなだけ買え」とコンビニに連れ出して食べ物をおごってくれた優しい先輩である。また2022年シーズンに多くバッテリーを組んだ嶺井博希も同じ、東都リーグの亜大出身。枯れた声の優しい先輩である。その嶺井は同年オフに国内FA権を行使して福岡ソフトバンクへ移籍。名コンビ解消が惜しまれるが、福岡に場を移しても尚、持ち前の激しく枯れた声で、チームとファンを笑いに包んでいる。無精髭を生やすとカールおじさんみたいになるので、チャンスがあればぜひご高覧のほど。【真顔で達成したノーヒットノーラン】2022年6月7日、対北海道日本ハム1回戦(札幌ド)で9回117球を投げて無安打、1四球という圧巻の投球で史上85人目、96度目、同年シーズンで両リーグ3人目、そして球団では1970年6月9日、対ヤクルトアトムズ5回戦(川崎)で鬼頭洋が達成して以来、実に52年ぶりとなるノーヒットノーランを達成した。そして球界全体で見ると、同年が日本ハムの本拠地ラストイヤーだった札幌ドームはもとより、過去に北海道内で開催されたNPB公式戦においても史上初の快挙。無安打無得点試合のこれまでの最北達成地は1950年、藤本英雄(巨人)がNPB史上初の完全試合を達成した青森市営球場だったが、遂に大記録が津軽海峡を越えた北の地で達成された。因みにセ・リーグの投手で前回ノーヒッターを達成したのは前掲の小川。その試合で投げ合いKOを喫し、戦線離脱の端緒となった事を思えば、あれから2年弱を経て溜飲が下がる思いではなかろうか。そのノーヒッターに際し、ちょっとした珍事も。達成の瞬間、最後の打者・野村祐希が放ったのは右翼ライン際、ウォーニングゾーン近くまで伸びた右飛。打球が上がってから滞空し、蝦名達夫が捕球するまでのごく短い間、名誉団長は打球を見つめつつ色々考え過ぎた挙げ句、どういう表情をすればいいのか分からなくなり、出しどころがないままに真顔でゲームセットを迎えてしまい、「ビジターなのであまり喜び過ぎないように」と気遣ったのもあいまって、マウンドへ駆け寄るチームメイトの祝福の輪に入ってハイタッチを交わし、大記録達成を寿ぐ花束を受け取り、その花束を携えたままマウンドの土を足で均し、そしてヒーローインタビューを終えてロッカーへ引き揚げる直前まで結局引き際を完全に見失ったまま、ずーっと真顔を押し通してしまうという「表情イップス」を味わってしまった。その全く変わらぬ表情に、インタビュー後に三上朋也(2023年巨人、翌24年オイシックスへ移籍)、山﨑康晃、濵口遥大をはじめ投手陣やスタッフが「アレはふざけてるよ、全部」「ヤバいよ」「(ウケ狙いと勘違いされたら)怒りますよ?アレ」とダグアウトで爆笑しつつも心配しながら出迎える中でも、名誉団長は「相手のホームだから」とその場ではひたすら強調したものの、かつてのチームメイトで現ジュニアコーチ兼医学生の寺田光輝に語った後日談によれば「(真顔は)半分本当で、半分冗談です」。その真顔がバックヤードでは一転。名誉団長の1年後輩の広報兼チームサポーター・狩野行寿に「これでまた(5月の中日戦で完封した際のヒーローインタビュー後のように)ロッカーで無視されたらしんどいですねぇ」とさらっと前振りされ、「さすがにそれはないでしょ」などと一笑に付しつつ「来たよー」とロッカーへ引き揚げると案の定(否、期待通り)、待ち構えたチームメイトやスタッフ全員が目線を逸らすように半笑いで出迎え、ひたすら自分以外の殊勲者を讃えるたらい回しに名誉団長がひたすら半ギレ状態でツッコミ続けるというサイレントトリートメントが繰り広げられた(ここまでの一連の流れは球団公式YouTubeに動画あり。ゲームセット後の真顔やヒーローインタビューについてはパ・リーグTVもご参照あれ)。更には翌日の試合前練習の間に行われた投手陣の記念撮影では、かつて話題をさらった「今永のズボンを必要以上にあげる筒香」をはじめ、私服姿で上目遣いの謎のスナップ写真などなど、名誉団長が過去に遺してきた数々のネタ写真が選手・スタッフの手で掲げられ(球団公式Twitter〔X〕より)、笑いもきっちり提供してくれた。そして奇しくもこのノーヒッター達成日は、前述した平良の術後1年の記念日。日めくりカレンダーにしたためられた格言は、『平良は一日にして成らず』。やっぱり、エースは君だ。・・・これでいいのかな?いいのかな?いいのかな?いいのかな、これで?・・・正解ないぞー?正解ないぞー?~斯く言う筆者も、2020年7月某日より別名「今短昇太(いまみじかしょうた)」として、ひっそりと軍団入りを果たし、9月15日には「ことながしょうた」にひっそりと改名し、現在に至る。なお「琴」という字を選んだのはたまたま。部首にある2つの「王」は個人タイトルか個人記録を、現役生活の間にせめて2つくらいは獲るなり達成するなりしてほしいわね・・・という期待を込めたとか何とかいうのは後付け。ともあれ名誉団長本人が22年のノーヒッター、23年の奪三振王で、そんな何者でもないどっかのおっさんの淡い期待に応えてくれたのが、何よりも嬉しい。

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    松戸市立寒風台小学校時代はソフトボールをしており(寒風台ソフトボールチームに所属)、野球は松戸市立第六中学校に進学後のシニアリーグ(松戸シニア)で始めた。その後横浜高等学校に進学。入学時から松坂大輔二世と呼ばれていた。高校2年春に第75回選抜高等学校野球大会に1学年上のエース成瀬善久らと共に出場。準決勝までは成瀬のリリーフとして登板。決勝戦では先発したが、広陵高の打線につかまり3-15と大敗した。第85回全国高等学校野球選手権大会神奈川大会では3回戦の港北高戦で成瀬に代わり先発を務めたが、ノーシード高相手にリードを許す苦しい展開となり成瀬の休養に失敗。9回逆転で辛くも勝ち上がるが準々決勝の桐蔭学園戦では延長戦となるなど、決勝進出は果たしたものの疲労はピークに達しており、3年生エース給前信吾、2年生の田澤純一を擁する横浜商大高校に敗れ春夏連続出場を逃した。3年夏には第86回全国高等学校野球選手権大会に同期の石川雄洋や2年後輩の福田永将らと出場。1回戦の報徳学園戦では片山博視から本塁打を放つなど打撃でも勝利に貢献し、2回戦の京都外大西戦は、延長戦にもつれ込んだが幾度と訪れた大ピンチの場面も我慢のピッチングで乗り切り完封勝利。肉体的にも精神的にもスタミナのある面を披露。3回戦の明徳義塾戦は中田亮二に本塁打を浴びるなど序盤に失点するも後半粘りのピッチングを披露し逆転勝利、この試合では松下建太に投げ勝つ。準々決勝の駒大苫小牧戦は林裕也にサイクル安打を浴びるなどして完敗した。国体秋季大会では、初戦の駒大苫小牧戦で14三振を奪って完投勝利を収め、決勝ではダルビッシュ有の東北高校を下し優勝している。高校時代の涌井について、横浜高の野球部長・小倉清一郎は「松坂よりも我慢し、辛い練習に耐え、乗り越えてきた」と称賛。その後、甲子園で147km/hを計測した涌井を見た松坂大輔は、「相当な努力をしたと思う」と評価した。最速148km/hのストレートとスライダーを投げ、2004年ドラフトで西武ライオンズから、単独で1巡目指名を受けた。西武に対する印象を聞かれ「松坂さんと同じチームで出来るのでとても嬉しい、西武に行きたかった」と答えている。また小倉部長は「最高のチームが指名してくれた」と語った。2005年:背番号16を与えられて入団時より大いに期待され、プロ入り1年目から開幕一軍入りを果たす。6月18日、交流戦最終戦の対ヤクルトスワローズ戦でプロ初勝利。同年、ファームの優秀選手を受賞。2006年:先発ローテーションに定着し、高卒ルーキーの炭谷銀仁朗と共に10代でバッテリーを組み「10代バッテリー」としてマスコミで話題となった。[1]。3月26日のオリックス戦にて炭谷とのコンビで勝利投手となり、また4月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では同じく炭谷とのバッテリーで自身初の完投および完封勝利を記録した。10代バッテリーでの勝利は1989年、横浜大洋ホエールズの石井忠徳-谷繁元信以来17年ぶりだった。6月はリーグ1位の防御率、3勝1敗で初の月間MVPを受賞。監督推薦でオールスターゲーム初出場。8月19日の対福岡ソフトバンクホークス戦で、「西武ライオンズ発足以来パ・リーグ公式戦通算2000勝目」の勝利投手となった。これは当初西武球団広報や通信社の記者にも気付かれておらず、インターネットのBBSに投稿されたファンの情報によって初めて明らかになったことが文化放送ライオンズナイターの中川充四郎公式サイトで公表された。オフには怪我で辞退した福留孝介に替わり日米野球に選出。1イニングの登板ながら好投を見せ、ジャーメイン・ダイからは「いずれメジャーで通用する素晴らしい投手だった」とコメントされた。2007年:デビュー時の速球中心の投球から打たせて取る投球にモデルチェンジしたことで勝ち星を積み重ねた。4月3日の対ソフトバンク戦の5回表には、プロ野球史上12人目となる1イニング4奪三振を達成。最終的に17勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得し、両リーグ最多の213投球回と199被安打を記録。完投数11はリーグ2位だった。12月の北京五輪出場をかけたアジア予選決勝リーグの日本代表メンバーに、ダルビッシュ有と並び最年少で選出され、初戦の先発を任され、フィリピンを相手に6回1安打無失点の好投を見せた。この試合の先発を告げるため監督の星野仙一の部屋に呼ばれた際、涌井本人はてっきり代表落選の知らせだと思いこみ「行きたくありません」と駄々をこねたという。契約更改の際、球団側から背番号18への変更を打診されるも固辞。「投手のタイトルを全て獲るくらいでないと変えられない」という背番号18の重さと「西武になってから16番を付けたのは3人(松沼雅之・潮崎哲也・涌井)だけ」と西武投手陣の一角を担った背番号16の先輩に対する敬意を理由に挙げている。2008年:3月20日の対オリックス戦にて初の開幕投手を務めた。シーズン序盤は防御率1点台と比較的好調でチームは勝利していたが自身は勝利に恵まれず、開幕から4試合目の4月10日のロッテ戦まで勝ちがつかなかった。この試合で決勝打を打った細川亨は「今日は涌井のためだけに打った」とそれまで中々勝ちがつかなかった涌井を労った。前年に最多勝を獲得したが、技巧的なピッチングが「若々しくない」と評されることがあり球速を上げるため春から調整法を変えていた。夏場までに球速アップを達成するのがめどであったが、効果が表れたのはポストシーズン以降であり、中盤以降はやや低調な成績が続いた。8月には北京オリンピック野球日本代表に選出され、台湾戦と中国戦の先発を任されて2勝をあげた。韓国戦の中継ぎとしても登板し、この大会の日本代表投手の中で最多イニング登板となった。なお韓国戦で涌井がリリーフ登板した場面は、当初の順番ではダルビッシュが中継ぎとして登板する予定で、涌井は一度肩をつくっていたが休んでいた。急遽予定が変更されたがブルペンの電話が故障していてベンチの指令が伝わらず、涌井は準備不足の状態でマウンドにあがることになったと後に大野豊が明かした[4]。帰国後は国際球とNPB球との違いに苦しむなど与四死球率は前年の2.45から3.07と悪化。3年連続となる2ケタ勝利を達成したものの11敗と負け越してしまうが、チームはリーグ優勝を飾った。クライマックスシリーズでは1、5戦に先発、計15回を投げ1失点、2勝を挙げた。第5戦は7回二死まで走者を許さず、最終的には3安打無四球完封勝利で胴上げ投手となり、シリーズのMVPに輝く。当初はシーズン後半不調であった涌井を1戦目に起用することには賛否両論あったが、「大舞台に強い」という理由で監督の渡辺久信が登板を決断し、見事期待に応える形となった。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦、第5戦に先発、第7戦に中継ぎで登板。それぞれ中4日、中4日、中2日での登板で、合計16 1/3回を投げ6失点。アジアシリーズでは決勝の統一ライオンズ戦に先発し6回2/3を無失点に抑え優勝に貢献した。この年もオフに球団から背番号18を打診され、悩みぬいた末に背番号を変更を決意。それまでの背番号16は石井一久に受け継がれた。これは2009年を最後に石井が引退するという噂があり「最後にカズさんに16をつけて欲しかった」と週刊現代[いつ?]のインタビューで語っている。2009年:2009ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、主に中継ぎ、ワンポイントとして好投。2連覇に貢献する。4月3日の開幕戦では2年連続2回目の開幕投手をつとめる。開幕投手はアメリカ遠征中に渡辺久信から直接電話を受け打診された。このため3月26日夜にWBCから帰国し、翌27日のデーゲームのオープン戦に先発して調整するというハードスケジュールであった。開幕から安定した投球を続け、7月には4試合4勝0敗防御率1.64の成績で月間MVPに選出された。前年よりの球速アップへの取り組みや筋力トレーニングを積極的に取り入れたこともあり球威が上がって奪三振数が増え、これまでの技巧派のイメージから一転して伸びのあるストレート主体の投球に切り替わった。しかし抑えの切り札であったアレックス・グラマンが5月に左肩関節炎で離脱し、チームの中継ぎ陣が不安定になり、先発した試合では完投を余儀なくされるようになる。さらに8月には主砲の中村剛也が怪我で一時的に離脱してチームの得点力が低下し、8月から9月にかけては5試合連続9回まで投げたが2回しか勝ちがつかずうち2度は同点だったため完投も記録されなかった。球数が非常に多くなり、160球以上投げた試合が3試合、1試合あたりの球数が132球、1イニングあたり16.8球を投げた。年間で3555球を投げ、07年の3385球に続いて両リーグトップだった。最終的に16勝6敗で2年ぶりの最多勝を獲得し、4年連続の二桁勝利を達成した。また投球回は12球団でただ一人200イニングを超え、完投11は両リーグ単独最多、完封4は両リーグ最多タイであった。防御率2.30、奪三振数199はリーグ2位といずれも自己最高であり、両リーグで唯一人、全ての選考基準を満たしたことで、2009年度の沢村賞を受賞した。オフに出身地である松戸市の市民栄誉賞を受賞し、通算勝利数に応じて市に寄付をすることが発表された。2010年:3年連続3回目の開幕投手を務める。この試合は千葉ロッテマリーンズの横浜高校時代の先輩、成瀬善久との投げ合いになり競り勝った。その後は不安定な投球が続き、さらに4月9日の対ロッテ戦の前日の練習中に味方打者の打球が後頭部に直撃し病院で検査を受けるというアクシデントに見舞われた。5月以降は調子を持ち直し、交流戦では4勝を挙げる。この年ソフトバンクの和田毅に継ぐ交流戦通算17勝を挙げた。5月15日の横浜ベイスターズ戦では4打数3安打4打点の活躍を見せ、プロ入り後及びパ・リーグの投手として交流戦史上初の猛打賞を獲得した。その後は石井一久と岸孝之が相次いで負傷離脱したため、中継ぎ温存のため毎試合完投を前提に投げることを余儀なくされた。しかしこの夏の記録的な猛暑で登板中に脱水症状を起こし足を吊って降板するなど体力を消耗し、途中まで好投するも試合後半に突発的に打ち込まれて大量失点するケースが目立った。それでも前半戦の活躍によりシーズン14勝を挙げた。シーズンオフには、契約更改が難航した。涌井と球団双方が、2011年1月12日日本プロ野球組織に年俸調停を申請した。球団提示額は現状維持の2億2,000万円、涌井の希望額は5,000万円増の2億7,000万円であり、2011年1月28日に出された調停結果は2億5,300万円と概ね涌井の主張が認められる形となった。調停書では、球団側の現状維持主張が「合理性がない」と判断され、エースとしての活躍、とりわけ前半の好成績が評価された。2011年:4年連続4度目の開幕投手を務める。日本ハムのダルビッシュを相手に勝ち星を挙げる上々の滑り出しで6月半ばまでは防御率1点台で一時リーグトップに立つも、開幕前から肘痛に悩まされ、5月には登録を抹消される。2年目でローテーション入りしてから、日程の都合以外で抹消されたのは初めてのことであった。復帰後も解消しない肘痛と6月の巨人戦で打球を当てた事による足痛で大幅にフォームを崩し、7月以降成績を落とし5年続いていた二桁勝利が途絶えた(9勝12敗)。シーズン終了後、5月の抹消時に右肘に遊離軟骨が見つかっていた事が発表され、一時は手術も検討したが保存療法で回復を目指す事を選択した。2012年:5年連続5度目の開幕投手を務めたが、開幕から3連敗を喫して4月16日に登録抹消となった。その後、抑えを務めていたエンリケ・ゴンザレスの不調により、プロ入り初の抑えで起用され5月4日に復帰、同日の対ロッテ戦(西武ドーム)で1点リードされた9回に登板して打者3人を3者凡退に抑えた、5月13日の対日本ハム戦で1イニングを打者5人、1安打1四球ながら無失点に抑えてプロ入り初セーブをあげた。しかし、5月18日発売の写真週刊誌「フライデー」において女性問題が発覚。24歳のホステスがベッド上のツーショット写真も公開し、肉体関係を告白。翌日「ファンの皆さんに心配をおかけし、申し訳ないです」と謝罪したが、22日に球団は品格を問題視して、涌井の出場選手登録を無期限抹消とする事を発表した。6月16日に球団が厳重注意の上、処分解除を発表。22日に一軍復帰。シーズン終了まで、抑え投手として出場し、リーグ2位の30セーブを挙げた。11月には侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」の日本代表に選出。2013年:WBC日本代表に選出されたが、合宿中にまたしても女性問題を報道され、球団から厳重注意を受けた。開幕から前年の抑えから先発に復帰したが、精彩をかきシーズン途中から中継ぎ、先発復帰を繰り返す。シーズン中盤以降は前年に続き中継ぎに専念。終盤には抑えに定着。9月25日の対楽天戦から10試合連続登板し、稲尾和久の持つ球団記録を塗り替えた。10月1日からは6日連続でセーブを記録し、クライマックスシリーズ進出に貢献した。クライマックスシリーズファーストステージ第3戦でも1点ビハインドの8回表に登板するが、角中勝也にダメ押しとなる2点適時三塁打を浴びるなど一死も取れず降板した。シーズンオフに国内FA権を行使した。2013年11月19日に千葉ロッテマリーンズと初交渉し、12月18日に球団は契約合意したと発表した。12月25日に入団会見を行い、背番号は西武入団時と同じ16と発表された。2014年:4月15日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(埼玉県営大宮公園野球場)に今季3度目となる先発出場、7回を投げて被安打5、奪三振8、与四死球1、自責点2、球数110を投げる好投をみせ、2-3とロッテが勝利。涌井は勝利投手となり、ロッテ移籍後、初の白星となった。また、古巣である西武からのこの勝利で、史上13人目となる全球団勝利を達成。2005年に交流戦が開始されて以降にこの記録を達成した10人のうち、所属球団が最小の2球団で達成したのは、久保康友、石井一久、杉内俊哉に次ぐ史上4人目。一方のリーグだけに所属して達成したのは、涌井が史上初となる。

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