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    松戸市立寒風台小学校時代はソフトボールをしており(寒風台ソフトボールチームに所属)、野球は松戸市立第六中学校に進学後のシニアリーグ(松戸シニア)で始めた。その後横浜高等学校に進学。入学時から松坂大輔二世と呼ばれていた。高校2年春に第75回選抜高等学校野球大会に1学年上のエース成瀬善久らと共に出場。準決勝までは成瀬のリリーフとして登板。決勝戦では先発したが、広陵高の打線につかまり3-15と大敗した。第85回全国高等学校野球選手権大会神奈川大会では3回戦の港北高戦で成瀬に代わり先発を務めたが、ノーシード高相手にリードを許す苦しい展開となり成瀬の休養に失敗。9回逆転で辛くも勝ち上がるが準々決勝の桐蔭学園戦では延長戦となるなど、決勝進出は果たしたものの疲労はピークに達しており、3年生エース給前信吾、2年生の田澤純一を擁する横浜商大高校に敗れ春夏連続出場を逃した。3年夏には第86回全国高等学校野球選手権大会に同期の石川雄洋や2年後輩の福田永将らと出場。1回戦の報徳学園戦では片山博視から本塁打を放つなど打撃でも勝利に貢献し、2回戦の京都外大西戦は、延長戦にもつれ込んだが幾度と訪れた大ピンチの場面も我慢のピッチングで乗り切り完封勝利。肉体的にも精神的にもスタミナのある面を披露。3回戦の明徳義塾戦は中田亮二に本塁打を浴びるなど序盤に失点するも後半粘りのピッチングを披露し逆転勝利、この試合では松下建太に投げ勝つ。準々決勝の駒大苫小牧戦は林裕也にサイクル安打を浴びるなどして完敗した。国体秋季大会では、初戦の駒大苫小牧戦で14三振を奪って完投勝利を収め、決勝ではダルビッシュ有の東北高校を下し優勝している。高校時代の涌井について、横浜高の野球部長・小倉清一郎は「松坂よりも我慢し、辛い練習に耐え、乗り越えてきた」と称賛。その後、甲子園で147km/hを計測した涌井を見た松坂大輔は、「相当な努力をしたと思う」と評価した。最速148km/hのストレートとスライダーを投げ、2004年ドラフトで西武ライオンズから、単独で1巡目指名を受けた。西武に対する印象を聞かれ「松坂さんと同じチームで出来るのでとても嬉しい、西武に行きたかった」と答えている。また小倉部長は「最高のチームが指名してくれた」と語った。2005年:背番号16を与えられて入団時より大いに期待され、プロ入り1年目から開幕一軍入りを果たす。6月18日、交流戦最終戦の対ヤクルトスワローズ戦でプロ初勝利。同年、ファームの優秀選手を受賞。2006年:先発ローテーションに定着し、高卒ルーキーの炭谷銀仁朗と共に10代でバッテリーを組み「10代バッテリー」としてマスコミで話題となった。[1]。3月26日のオリックス戦にて炭谷とのコンビで勝利投手となり、また4月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では同じく炭谷とのバッテリーで自身初の完投および完封勝利を記録した。10代バッテリーでの勝利は1989年、横浜大洋ホエールズの石井忠徳-谷繁元信以来17年ぶりだった。6月はリーグ1位の防御率、3勝1敗で初の月間MVPを受賞。監督推薦でオールスターゲーム初出場。8月19日の対福岡ソフトバンクホークス戦で、「西武ライオンズ発足以来パ・リーグ公式戦通算2000勝目」の勝利投手となった。これは当初西武球団広報や通信社の記者にも気付かれておらず、インターネットのBBSに投稿されたファンの情報によって初めて明らかになったことが文化放送ライオンズナイターの中川充四郎公式サイトで公表された。オフには怪我で辞退した福留孝介に替わり日米野球に選出。1イニングの登板ながら好投を見せ、ジャーメイン・ダイからは「いずれメジャーで通用する素晴らしい投手だった」とコメントされた。2007年:デビュー時の速球中心の投球から打たせて取る投球にモデルチェンジしたことで勝ち星を積み重ねた。4月3日の対ソフトバンク戦の5回表には、プロ野球史上12人目となる1イニング4奪三振を達成。最終的に17勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得し、両リーグ最多の213投球回と199被安打を記録。完投数11はリーグ2位だった。12月の北京五輪出場をかけたアジア予選決勝リーグの日本代表メンバーに、ダルビッシュ有と並び最年少で選出され、初戦の先発を任され、フィリピンを相手に6回1安打無失点の好投を見せた。この試合の先発を告げるため監督の星野仙一の部屋に呼ばれた際、涌井本人はてっきり代表落選の知らせだと思いこみ「行きたくありません」と駄々をこねたという。契約更改の際、球団側から背番号18への変更を打診されるも固辞。「投手のタイトルを全て獲るくらいでないと変えられない」という背番号18の重さと「西武になってから16番を付けたのは3人(松沼雅之・潮崎哲也・涌井)だけ」と西武投手陣の一角を担った背番号16の先輩に対する敬意を理由に挙げている。2008年:3月20日の対オリックス戦にて初の開幕投手を務めた。シーズン序盤は防御率1点台と比較的好調でチームは勝利していたが自身は勝利に恵まれず、開幕から4試合目の4月10日のロッテ戦まで勝ちがつかなかった。この試合で決勝打を打った細川亨は「今日は涌井のためだけに打った」とそれまで中々勝ちがつかなかった涌井を労った。前年に最多勝を獲得したが、技巧的なピッチングが「若々しくない」と評されることがあり球速を上げるため春から調整法を変えていた。夏場までに球速アップを達成するのがめどであったが、効果が表れたのはポストシーズン以降であり、中盤以降はやや低調な成績が続いた。8月には北京オリンピック野球日本代表に選出され、台湾戦と中国戦の先発を任されて2勝をあげた。韓国戦の中継ぎとしても登板し、この大会の日本代表投手の中で最多イニング登板となった。なお韓国戦で涌井がリリーフ登板した場面は、当初の順番ではダルビッシュが中継ぎとして登板する予定で、涌井は一度肩をつくっていたが休んでいた。急遽予定が変更されたがブルペンの電話が故障していてベンチの指令が伝わらず、涌井は準備不足の状態でマウンドにあがることになったと後に大野豊が明かした[4]。帰国後は国際球とNPB球との違いに苦しむなど与四死球率は前年の2.45から3.07と悪化。3年連続となる2ケタ勝利を達成したものの11敗と負け越してしまうが、チームはリーグ優勝を飾った。クライマックスシリーズでは1、5戦に先発、計15回を投げ1失点、2勝を挙げた。第5戦は7回二死まで走者を許さず、最終的には3安打無四球完封勝利で胴上げ投手となり、シリーズのMVPに輝く。当初はシーズン後半不調であった涌井を1戦目に起用することには賛否両論あったが、「大舞台に強い」という理由で監督の渡辺久信が登板を決断し、見事期待に応える形となった。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦、第5戦に先発、第7戦に中継ぎで登板。それぞれ中4日、中4日、中2日での登板で、合計16 1/3回を投げ6失点。アジアシリーズでは決勝の統一ライオンズ戦に先発し6回2/3を無失点に抑え優勝に貢献した。この年もオフに球団から背番号18を打診され、悩みぬいた末に背番号を変更を決意。それまでの背番号16は石井一久に受け継がれた。これは2009年を最後に石井が引退するという噂があり「最後にカズさんに16をつけて欲しかった」と週刊現代[いつ?]のインタビューで語っている。2009年:2009ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれ、主に中継ぎ、ワンポイントとして好投。2連覇に貢献する。4月3日の開幕戦では2年連続2回目の開幕投手をつとめる。開幕投手はアメリカ遠征中に渡辺久信から直接電話を受け打診された。このため3月26日夜にWBCから帰国し、翌27日のデーゲームのオープン戦に先発して調整するというハードスケジュールであった。開幕から安定した投球を続け、7月には4試合4勝0敗防御率1.64の成績で月間MVPに選出された。前年よりの球速アップへの取り組みや筋力トレーニングを積極的に取り入れたこともあり球威が上がって奪三振数が増え、これまでの技巧派のイメージから一転して伸びのあるストレート主体の投球に切り替わった。しかし抑えの切り札であったアレックス・グラマンが5月に左肩関節炎で離脱し、チームの中継ぎ陣が不安定になり、先発した試合では完投を余儀なくされるようになる。さらに8月には主砲の中村剛也が怪我で一時的に離脱してチームの得点力が低下し、8月から9月にかけては5試合連続9回まで投げたが2回しか勝ちがつかずうち2度は同点だったため完投も記録されなかった。球数が非常に多くなり、160球以上投げた試合が3試合、1試合あたりの球数が132球、1イニングあたり16.8球を投げた。年間で3555球を投げ、07年の3385球に続いて両リーグトップだった。最終的に16勝6敗で2年ぶりの最多勝を獲得し、4年連続の二桁勝利を達成した。また投球回は12球団でただ一人200イニングを超え、完投11は両リーグ単独最多、完封4は両リーグ最多タイであった。防御率2.30、奪三振数199はリーグ2位といずれも自己最高であり、両リーグで唯一人、全ての選考基準を満たしたことで、2009年度の沢村賞を受賞した。オフに出身地である松戸市の市民栄誉賞を受賞し、通算勝利数に応じて市に寄付をすることが発表された。2010年:3年連続3回目の開幕投手を務める。この試合は千葉ロッテマリーンズの横浜高校時代の先輩、成瀬善久との投げ合いになり競り勝った。その後は不安定な投球が続き、さらに4月9日の対ロッテ戦の前日の練習中に味方打者の打球が後頭部に直撃し病院で検査を受けるというアクシデントに見舞われた。5月以降は調子を持ち直し、交流戦では4勝を挙げる。この年ソフトバンクの和田毅に継ぐ交流戦通算17勝を挙げた。5月15日の横浜ベイスターズ戦では4打数3安打4打点の活躍を見せ、プロ入り後及びパ・リーグの投手として交流戦史上初の猛打賞を獲得した。その後は石井一久と岸孝之が相次いで負傷離脱したため、中継ぎ温存のため毎試合完投を前提に投げることを余儀なくされた。しかしこの夏の記録的な猛暑で登板中に脱水症状を起こし足を吊って降板するなど体力を消耗し、途中まで好投するも試合後半に突発的に打ち込まれて大量失点するケースが目立った。それでも前半戦の活躍によりシーズン14勝を挙げた。シーズンオフには、契約更改が難航した。涌井と球団双方が、2011年1月12日日本プロ野球組織に年俸調停を申請した。球団提示額は現状維持の2億2,000万円、涌井の希望額は5,000万円増の2億7,000万円であり、2011年1月28日に出された調停結果は2億5,300万円と概ね涌井の主張が認められる形となった。調停書では、球団側の現状維持主張が「合理性がない」と判断され、エースとしての活躍、とりわけ前半の好成績が評価された。2011年:4年連続4度目の開幕投手を務める。日本ハムのダルビッシュを相手に勝ち星を挙げる上々の滑り出しで6月半ばまでは防御率1点台で一時リーグトップに立つも、開幕前から肘痛に悩まされ、5月には登録を抹消される。2年目でローテーション入りしてから、日程の都合以外で抹消されたのは初めてのことであった。復帰後も解消しない肘痛と6月の巨人戦で打球を当てた事による足痛で大幅にフォームを崩し、7月以降成績を落とし5年続いていた二桁勝利が途絶えた(9勝12敗)。シーズン終了後、5月の抹消時に右肘に遊離軟骨が見つかっていた事が発表され、一時は手術も検討したが保存療法で回復を目指す事を選択した。2012年:5年連続5度目の開幕投手を務めたが、開幕から3連敗を喫して4月16日に登録抹消となった。その後、抑えを務めていたエンリケ・ゴンザレスの不調により、プロ入り初の抑えで起用され5月4日に復帰、同日の対ロッテ戦(西武ドーム)で1点リードされた9回に登板して打者3人を3者凡退に抑えた、5月13日の対日本ハム戦で1イニングを打者5人、1安打1四球ながら無失点に抑えてプロ入り初セーブをあげた。しかし、5月18日発売の写真週刊誌「フライデー」において女性問題が発覚。24歳のホステスがベッド上のツーショット写真も公開し、肉体関係を告白。翌日「ファンの皆さんに心配をおかけし、申し訳ないです」と謝罪したが、22日に球団は品格を問題視して、涌井の出場選手登録を無期限抹消とする事を発表した。6月16日に球団が厳重注意の上、処分解除を発表。22日に一軍復帰。シーズン終了まで、抑え投手として出場し、リーグ2位の30セーブを挙げた。11月には侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」の日本代表に選出。2013年:WBC日本代表に選出されたが、合宿中にまたしても女性問題を報道され、球団から厳重注意を受けた。開幕から前年の抑えから先発に復帰したが、精彩をかきシーズン途中から中継ぎ、先発復帰を繰り返す。シーズン中盤以降は前年に続き中継ぎに専念。終盤には抑えに定着。9月25日の対楽天戦から10試合連続登板し、稲尾和久の持つ球団記録を塗り替えた。10月1日からは6日連続でセーブを記録し、クライマックスシリーズ進出に貢献した。クライマックスシリーズファーストステージ第3戦でも1点ビハインドの8回表に登板するが、角中勝也にダメ押しとなる2点適時三塁打を浴びるなど一死も取れず降板した。シーズンオフに国内FA権を行使した。2013年11月19日に千葉ロッテマリーンズと初交渉し、12月18日に球団は契約合意したと発表した。12月25日に入団会見を行い、背番号は西武入団時と同じ16と発表された。2014年:4月15日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(埼玉県営大宮公園野球場)に今季3度目となる先発出場、7回を投げて被安打5、奪三振8、与四死球1、自責点2、球数110を投げる好投をみせ、2-3とロッテが勝利。涌井は勝利投手となり、ロッテ移籍後、初の白星となった。また、古巣である西武からのこの勝利で、史上13人目となる全球団勝利を達成。2005年に交流戦が開始されて以降にこの記録を達成した10人のうち、所属球団が最小の2球団で達成したのは、久保康友、石井一久、杉内俊哉に次ぐ史上4人目。一方のリーグだけに所属して達成したのは、涌井が史上初となる。

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