「デラシネ」とは、フランス語で「根なし草」を意味する言葉。
そこから転じて、故郷や祖国から切り離され、社会を漂よう流れ者のことを指すようになった。
否定的なイメージのあるこの言葉を、むしろいまこそ積極的に引き受け、デラシネとしてどう生きるかを考えるべきではないかーー。
五木寛之は新著『デラシネの時代』でそう主張している。
グローバル化が急速に進む一方で、各国で排外主義が勃興する現代。
つぎつぎと常識が変わっていくなかで、なにか「確固たるもの」にしがみつくことはもはやできない。
その意味で現代人はみな、デラシネなのではないか?
五木のいう「デラシネ」は、東浩紀のいう「観光客」と重なり合う。
「村人」でも「旅人」でもなく、特定の共同体に属しつつ、ときおり別の共同体を訪れるようなあり方をするのが「観光客」であり、そこに新しい主体のありかたを見出したのが『ゲンロン0 観光客の哲学』だった。
もともと倫理的な主体としては認められてこなかったような、デラシネ的な、観光客的な生き方をそれぞれに論じてきた五木と東。
まったく違うキャリアをもつふたりだが、五木が『日刊ゲンダイ』の連載「流されゆく日々」で、『ゲンロン』6、7の「ロシア現代思想特集」に言及したことがきっかけとなり、五木からのリクエストを受けて初顔合わせが決まった。
司会はロシア文学者で、『亡命文学論』の著者でもある沼野充義。
ふたりのもうひとつの共通項でもあるロシア文学を踏まえ、新たな時代を生きるヒントを探る。
デラシネの倫理と観光客の哲学–ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20180420/