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【2015/9/18収録】平倉圭×細馬宏通×畠山宗明「『映画的』であるとはどのようなことか?——見世物から『マッドマックス』へ」 @hirakurakei @kaerusan @gilledwhale

CH有料
(3時間19分)

ゲンロン完全中継チャンネル提供:合同会社ゲンロンカフェ

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現代の映像環境は、かつて予想していたものとは少し異なった方向に進んでいる。1970年代から80年代の情報化が進行した時期に、情報テクノロジーは現実のリアリティを凌駕し、身体から自由になった情報空間を形成すると考えられた。しかし、デジタルメディアの時代になって、人はむしろ、かつてよりさらに身体に拘束されるようになっている。そのような情報化に伴う映像の変容を考えるにあたっては、媒体そのものよりも、イメージが観客に及ぼす作用から考える必要があるだろう。
細馬宏通、平倉圭、畠山宗明の三名は、今年3月にゲンロンカフェでゴダール初の3D作品である『さらば、愛の言葉よ』を運動や身体という観点から論じたが、ここで取られたアプローチは、現在の映像環境全体を考える上でも有効である。それゆえ本イベントでは、映像環境の今日性を、再び同じアプローチから論じる。 とりわけ考えてみたいのは、「映画的なもの」の行方である。映画は20世紀を通じて、映像で「語る」ための文法を作り上げてきたが、映画が数ある視聴形態の一部にすぎなくなった現在、「映画的なもの」のあり方も、大きく変わってきていると思われるからだ。
代わって登場してきているのは、見世物的なパラダイムである。複雑な編集に依拠した洗練された物語は、映像のインパクトにますますその場を譲りつつある。見世物から生まれた映画は、デジタル技術の登場を経て、むしろ映画以前のパラダイムに回帰しているかのようなのである。 しかし一方で、アメリカを中心に作り上げられた映画的な文法は、非西洋圏で制作された映画や、Youtubeで拡散する個人制作の動画などを通じて、むしろその影響力を強めている。「映画的なもの」は、グローバルにその覇権を広げているかのようでもあるのだ。このような映像環境にあって、私たちは「映画的なもの」の位相をどのように考えたらよいのか?本イベントではこうした問題意識から、「映画的なもの」と現代の映像環境の交錯を、『ゼロ・グラヴィティ』や『マッドマックス』、さらにはISの処刑動画などネット上に氾濫する動画などから考えてみたい。(畠山宗明)
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東京西五反田に位置する「ゲンロンカフェ」。作家、学者、政治家、ジャーナリスト、クリエイター、経営者ら、時代のキーパーソンが集う新型トークイベントスペースの模様を完全中継。